「杏子さん、ただいま!」

 雑踏の中でもひときわ元気のいい声とともに、暮海探偵事務所の扉が勢いよく開け放たれた。真っ赤なランドセルを背負った小さな人影が、杏子の視界に飛び込んでくる。探偵事務所という場所にはどう見ても似つかわしくない、この幼い少女の名前は。少しばかり訳ありで、とある依頼人の娘をしばらく預かることになったのだ。

 日ごろから風変りな依頼を請け負うことの多いこの事務所といえど、さすがに探偵業務から逸脱しすぎていると言わざるを得ないこの件を、杏子が引き受けた理由は二つ。

 一つは、有り体に言えば、割りのいい仕事だったからだ。このは自身の置かれている特異な状況を幼いながらに理解しているようで、杏子の仕事中は事務所の片隅でおとなしく過ごしていることができたし、ワトソンくんも手が空いているときは積極的に彼女の遊び相手を引き受けてくれている。つまり彼女の本来の業務に差し支えることなく、杏子は十分すぎるほどの報酬を手にすることができたのだ。

 そして、もう一つ――書類仕事が一区切りついたタイミングで、杏子は事務所の時計に目をやった。

「そろそろ休憩にするか。コーヒーを淹れよう、キミも飲むか?」

 杏子がデスクから立ち上がりがてら声をかけると、来客用のテーブルで今日の宿題に取り掛かっていたがぱっと顔を上げた。

「うん!」
「良い返事だ」

 は、自分も手伝う、と言い張って事務所の簡易キッチンに駆け寄った。そして真剣な顔つきで冷蔵庫の中を覗き込み、“今日のブレンド”について杏子と熱心に議論を交わし始める。コーヒーの味がわかること。それこそが、杏子がを預かることに決めたもう一つの理由だった。このところ、又吉刑事も優秀な助手くんも、何だかんだと理由をつけては仕事の合間のコーヒーブレイクに付き合ってくれないのだ。

「あの二人、仕事熱心なのは大いに結構だが、時にはこうして休息を取ることも大切だよ。キミも覚えておきたまえ」
「はぁい」

 杏子とがかなり個性的な味覚の持ち主であることを指摘するべきかどうか、ワトソンくんが影でさんざん迷っていることを、優雅にコーヒーを楽しんでいる二人だけがいつまでも知らないのであった。

2019/09/15

back